2010年 06月 20日
真の「国際化」・「国際教育」とは何か |
巷では「国際化」とか「国際教育」なる言葉が流行り出して何年も経ちます。
ところがどうでしょう。あまりにも本質を外しているものが多いではありませんか。
多くの場合,「国際化」は「欧米化(特にアメリカ化)」の誤用です。
欧米化することと国際化は別物です。
他国の文化を取り入れ,模倣すること自体を批判するわけではありません。
しかし,それは国際化ではないのです。
それを国際化と言ってしまうと,日本は何もできない国になっていく一方です。
日本がいくらイギリスやフランスやアメリカの文化を取り入れたところで,
世界という舞台ではイギリスやフランスやアメリカには敵わないということです。
では,国際化とは何か。
それは日本という国の強みと弱みを知り,国際社会において弱みをカバーしながら
強みを生かして国際社会での日本の存在価値を高めていく。それが国際化です。
ところがどうでしょう。
若い世代を中心に,日本の文化がどんどんと軽視されている傾向にあるように感じられます。
さらに,日本そのものへの興味関心が薄れていると言えるでしょう。
日本の文化,日本人のモノの考え方が,この国の長い歴史の上でどのように育まれていったのか。
そこまでの議論には至らなくても,日本の歴史について,国土について,地理について,政治の在り方について,どれくらいの人が興味関心を持っているでしょうか。
自国の強みも弱みも理解しないまま,世界という舞台では戦えないのです。
このことは,多くの日系企業(特に電機メーカー)が世界市場で伸び悩み,苦しんでいることからも容易に推測できます。
なら,どうすればいいのか。そこで重要になってくるのが「国際教育」なのです。
しかし,これまた誤解されていることが多いのです。
よくあるのが,「国際教育」を強調している学校(特に中高)で外国語や世界史の類の教育を充実ぶりを前面に押し出しているパターンです。
本来,それらは二の次に行われるべきことなのです。
国際教育とは,国際社会において活躍できる人材を育てる,あるいは日本という国の国際化(上述の意味での国際化)につながるものでなくてはなりません。
ということは,やはり日本の強みと弱みを把握している必要があるわけです。
そしてその上で,他国の強みや弱みを把握し足りない部分を補いあいながら,日本の強みを活かしていき,世界での日本の価値を高めなければなりません。
つまり「社会科」の授業は国際教育の根幹であり,決して数学や英語よりも軽視されるべきものではないのです。
日本の強みと弱みを把握する。それが国際化の出発点です。
そしてその上で,国際社会で戦っていくための論理的な戦略を練る。その上で役に立つのが数理なのです。
それゆえに「文系」だの「理系」だのに分けて,それぞれを疎かにしてしまう日本の教育制度は国際教育を実現する上で,大いに問題なのです。
(ちなみに理系,文系を明確に分けるのは日本の教育制度の特徴で,その起源は明治時代に遡ります。他国にも文理分けが無いわけではないですが,もう少し縛りは緩やかです。明治時代に西洋の教育を取り入れた際に,資金が掛ってしまう理系の教育を学生全員に施す財力が無かった。そのために学生を「選抜」して選ばれし者だけに理系教育を施した,「理系は賢い」という偏見はその名残です。)
これまでの説明だと「それでは外国語は国際教育には必要ないのか?」と思う人もいるでしょう。
そうではありません。ここまでが国際社会で戦うための準備であり,国際教育の土台であるということです。
実際に国際社会で他国と関わっていく際には,外国語(とりわけ英語)は重要です。
日本語を話している国は日本しかないので,なおさらのことです。
しかし,英語以上に大切にしなければならないのは日本語なのです。
現在までのところ,確固たる母語(第一言語)が無ければ第二言語を習得することが困難である。ということが明らかになっています。
少し極端な例ですが,在日日系ブラジル人の子どもたちが良い例だと言われています。
多くの場合,子は親を通して言語の基礎を習得します。
ところが在日日系ブラジル人は生活が楽ではなく,共働きで忙しくしているため,子どもの世話も疎かになりがちなのだそうです。
その結果,幼少期に母語となる言語の基礎(彼らの場合はポルトガル語)を習得できなかったために,その後の第二言語習得(彼らの場合は日本語)が著しく困難になり,日本の学校にも馴染めない。という問題が出ているそうです。
この例からも推測できる通り,基礎となる言語は非常に重要なのです。
ところが,「漢字が書けない」に始まり「日本語が正しく使えない子どもが増えている」と叫ばれ続けています。母語が疎かな状態では,他の言語の習得も難しいのは既に触れたとおりです。
ゆえに母語となる日本語教育の充実は,英語習得のためにも避けて通れないのです。
しっかりとした母語の土台を基に,外国語の習得が可能となるのです。
小学校における英語教育の導入が行われようとしています。言語は早いに越したことはないので,そのこと自体は良いことです。
しかし,日本語教育の授業を減らしてまで行うものではありません。
それでは言語道断なのです。
その上で,今よりも英語力のある人材が育っていくことでしょう。
この段階に達したら,実践すべきなのは「教科の枠を横断した指導」です。
学校の授業は,学校の授業のためだけのものではなく,それを実践で活かしていくものであることを認識し,将来的に活用できるようにならなくてはいけません。
学んだことをツール(道具)として活用できる力が必要なのですが,語学はその最たるものです。
(文法だけ知っていても,会話力が無ければ意味がないということです)
そのためには,教員にも自身が指導する教科の理解だけでなく,広い知識と理解・経験が求められます。
教科の枠を超越し,様々なものを組み合わせる。それによって,より協力な力を発揮していく。
それゆえに「総合的な学習の時間」の存在は重要ですし,それが存在意義だったはずです。
決して小論文などに振り替えられるべき時間ではないのです。
そして,それが可能なのは高校までなのです。
大学では学部に分かれてしまうため,どうしても専門に多くの時間を費やしてしまうからです。
つまり,国際教育においては主要5教科すべてが重要という結論であり,外国語に代表されるように特定の教科だけを強調するような国際教育はあり得ないということです。
現時点では「国際教育」が名ばかりというのが,多くの学校での実態ではないでしょうか。
ところがどうでしょう。あまりにも本質を外しているものが多いではありませんか。
多くの場合,「国際化」は「欧米化(特にアメリカ化)」の誤用です。
欧米化することと国際化は別物です。
他国の文化を取り入れ,模倣すること自体を批判するわけではありません。
しかし,それは国際化ではないのです。
それを国際化と言ってしまうと,日本は何もできない国になっていく一方です。
日本がいくらイギリスやフランスやアメリカの文化を取り入れたところで,
世界という舞台ではイギリスやフランスやアメリカには敵わないということです。
では,国際化とは何か。
それは日本という国の強みと弱みを知り,国際社会において弱みをカバーしながら
強みを生かして国際社会での日本の存在価値を高めていく。それが国際化です。
ところがどうでしょう。
若い世代を中心に,日本の文化がどんどんと軽視されている傾向にあるように感じられます。
さらに,日本そのものへの興味関心が薄れていると言えるでしょう。
日本の文化,日本人のモノの考え方が,この国の長い歴史の上でどのように育まれていったのか。
そこまでの議論には至らなくても,日本の歴史について,国土について,地理について,政治の在り方について,どれくらいの人が興味関心を持っているでしょうか。
自国の強みも弱みも理解しないまま,世界という舞台では戦えないのです。
このことは,多くの日系企業(特に電機メーカー)が世界市場で伸び悩み,苦しんでいることからも容易に推測できます。
なら,どうすればいいのか。そこで重要になってくるのが「国際教育」なのです。
しかし,これまた誤解されていることが多いのです。
よくあるのが,「国際教育」を強調している学校(特に中高)で外国語や世界史の類の教育を充実ぶりを前面に押し出しているパターンです。
本来,それらは二の次に行われるべきことなのです。
国際教育とは,国際社会において活躍できる人材を育てる,あるいは日本という国の国際化(上述の意味での国際化)につながるものでなくてはなりません。
ということは,やはり日本の強みと弱みを把握している必要があるわけです。
そしてその上で,他国の強みや弱みを把握し足りない部分を補いあいながら,日本の強みを活かしていき,世界での日本の価値を高めなければなりません。
つまり「社会科」の授業は国際教育の根幹であり,決して数学や英語よりも軽視されるべきものではないのです。
日本の強みと弱みを把握する。それが国際化の出発点です。
そしてその上で,国際社会で戦っていくための論理的な戦略を練る。その上で役に立つのが数理なのです。
それゆえに「文系」だの「理系」だのに分けて,それぞれを疎かにしてしまう日本の教育制度は国際教育を実現する上で,大いに問題なのです。
(ちなみに理系,文系を明確に分けるのは日本の教育制度の特徴で,その起源は明治時代に遡ります。他国にも文理分けが無いわけではないですが,もう少し縛りは緩やかです。明治時代に西洋の教育を取り入れた際に,資金が掛ってしまう理系の教育を学生全員に施す財力が無かった。そのために学生を「選抜」して選ばれし者だけに理系教育を施した,「理系は賢い」という偏見はその名残です。)
これまでの説明だと「それでは外国語は国際教育には必要ないのか?」と思う人もいるでしょう。
そうではありません。ここまでが国際社会で戦うための準備であり,国際教育の土台であるということです。
実際に国際社会で他国と関わっていく際には,外国語(とりわけ英語)は重要です。
日本語を話している国は日本しかないので,なおさらのことです。
しかし,英語以上に大切にしなければならないのは日本語なのです。
現在までのところ,確固たる母語(第一言語)が無ければ第二言語を習得することが困難である。ということが明らかになっています。
少し極端な例ですが,在日日系ブラジル人の子どもたちが良い例だと言われています。
多くの場合,子は親を通して言語の基礎を習得します。
ところが在日日系ブラジル人は生活が楽ではなく,共働きで忙しくしているため,子どもの世話も疎かになりがちなのだそうです。
その結果,幼少期に母語となる言語の基礎(彼らの場合はポルトガル語)を習得できなかったために,その後の第二言語習得(彼らの場合は日本語)が著しく困難になり,日本の学校にも馴染めない。という問題が出ているそうです。
この例からも推測できる通り,基礎となる言語は非常に重要なのです。
ところが,「漢字が書けない」に始まり「日本語が正しく使えない子どもが増えている」と叫ばれ続けています。母語が疎かな状態では,他の言語の習得も難しいのは既に触れたとおりです。
ゆえに母語となる日本語教育の充実は,英語習得のためにも避けて通れないのです。
しっかりとした母語の土台を基に,外国語の習得が可能となるのです。
小学校における英語教育の導入が行われようとしています。言語は早いに越したことはないので,そのこと自体は良いことです。
しかし,日本語教育の授業を減らしてまで行うものではありません。
それでは言語道断なのです。
その上で,今よりも英語力のある人材が育っていくことでしょう。
この段階に達したら,実践すべきなのは「教科の枠を横断した指導」です。
学校の授業は,学校の授業のためだけのものではなく,それを実践で活かしていくものであることを認識し,将来的に活用できるようにならなくてはいけません。
学んだことをツール(道具)として活用できる力が必要なのですが,語学はその最たるものです。
(文法だけ知っていても,会話力が無ければ意味がないということです)
そのためには,教員にも自身が指導する教科の理解だけでなく,広い知識と理解・経験が求められます。
教科の枠を超越し,様々なものを組み合わせる。それによって,より協力な力を発揮していく。
それゆえに「総合的な学習の時間」の存在は重要ですし,それが存在意義だったはずです。
決して小論文などに振り替えられるべき時間ではないのです。
そして,それが可能なのは高校までなのです。
大学では学部に分かれてしまうため,どうしても専門に多くの時間を費やしてしまうからです。
つまり,国際教育においては主要5教科すべてが重要という結論であり,外国語に代表されるように特定の教科だけを強調するような国際教育はあり得ないということです。
現時点では「国際教育」が名ばかりというのが,多くの学校での実態ではないでしょうか。
by yooinchoi
| 2010-06-20 01:30