2014年 02月 01日
鹿洞書院と西生浦倭城 |
沙也可という日本人をご存じだろうか。またの名を金忠善といい,豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に釜山上陸とともに朝鮮側に寝返り日本軍撃退に一役買ったといわれる人物である。
言い伝えによれば,幼少期から朝鮮の書物や文化に触れていた沙也可は,大義なき秀吉の朝鮮侵略に異を唱え,講和書と3000人もの部下を携えて朝鮮側についた。とされている。
その後の戦時下での功績を湛えられ,金氏の姓を賜り,その後の生涯を韓国で過ごした彼は,韓国では今なお名高い歴史上の人物である。
3000人という数字の真偽はさておき,かねてより気になっていた場所であったので,今回訪れることにしてみた。
秀吉による天下統一後,諸侯への褒賞を取らせるための土地の余剰が日本国内に乏しかったため,秀吉は文禄・慶長の2回に渡って朝鮮出兵を決めたと言われている。
この2回に渡る朝鮮出兵で,加藤清正率いる日本軍は悪事の限りを尽くし、朝鮮国の国土は荒れ,国が疲弊した(と記録されている。)
この時に,諸侯が秀吉に自らの戦績を報告するために,競って朝鮮人の耳や鼻を切り落として塩漬けにして持ち帰ったものの名残が,いまも京都市に残る耳塚だ。
(考えるだけで身震いしてしまうほど恐ろしい…)
そんな中,加藤清正の右腕でありながら,この度の出兵に異を唱えたのが沙也可だ。
その後の1910年の韓国併合のこともあり,韓国史において長らく憎しみの対象とされていた日本人であっても,当然ながら高い評価を得ている日本人は何人も存在する。
疑うまでもなく,沙也可はそのうちの1人だ。彼の英断と功績は,今なお語り継がれている。
韓国でこれだけ評価されている日本人がいるという事実は,今後の日本と韓国の関係を考えるうえで価値ある足がかりにはならないだろうか。
そう考え,彼の残した鹿洞書院と墓地を初詣替わりに訪れ,今後の相互友好発展を願うことにした。
場所柄にふさわしく(?)この1年の日本と韓国の関係を振り返ってみた。
両国ともに指導者が変わって早一年。隣国どうしでありながら,今なお首脳会談が行われていないという明らかな異常事態が続いている。
冷え切った両国関係の中で,どれだけの国益の損失があっただろう。考えるだけで,何とも悲しいことえはないか。
未だに国益が優先されるこの社会を生きながら,感情が先走ってしまうのは本当に寂しいことである。
安倍首相には,不戦の誓いを立てるのであれば,靖国よりもこういうところを訪問し,献花し「秀吉による朝鮮出兵後には,江戸幕府と朝鮮王朝の間に友好関係が築けていたにも関わらず,不幸にも1910年に韓国併合が起きてしまった。いま,こうして義を重んじて異国の地で称えられている日本人の墓地を訪れ,その日本人の子孫の方々とお会いして,不戦の念を改めて表明したい」としていただいたほうが,よほど両国にとって前向きなメッセージを発信できたのではないだろうか。とつくづく感じた。
同じ不戦の誓いであっても,靖国と鹿洞書院では,ずいぶんと意味合いの違ったものになったのではないかと感じずにはいられなかった。
鹿洞書院の隣に,ガラス張りの建物があった。鍵が掛かっていたので中に入ることはできなかったが,「日本国貴賓 鹿洞書院訪問」と書かれた横断幕が掲げられていた。(写真最後)
どのような人物が訪問したのだろう。そして,貴賓とされる人がこういう場を訪問したにも関わらず,こういうことは報道されず,ネガティブなことばかりがニュースになっている現状を改めて寂しく感じた。
なぜ人は傷つけあうのだろう。。。
そして,金忠善つながりで,文禄の役で加藤清正率いる日本軍が韓国南東部の蔚山に築いた城跡地を見てきた。まさに兵どもが夢の跡。建物の痕跡はなく,日本式に積まれた石垣が残るのみだった。
時は流れ,万物は流転し朽ちる。石垣も所々で崩れている場所があったのが少し残念だ。
清正たちは,ここから海の水平線の向こうにある日本を眺めながら,何を考えたのだろうか。そして,どういう思いでここを去って行ったのだろう。思いを馳せれば尽きることはない。
言い伝えによれば,幼少期から朝鮮の書物や文化に触れていた沙也可は,大義なき秀吉の朝鮮侵略に異を唱え,講和書と3000人もの部下を携えて朝鮮側についた。とされている。
その後の戦時下での功績を湛えられ,金氏の姓を賜り,その後の生涯を韓国で過ごした彼は,韓国では今なお名高い歴史上の人物である。
3000人という数字の真偽はさておき,かねてより気になっていた場所であったので,今回訪れることにしてみた。
秀吉による天下統一後,諸侯への褒賞を取らせるための土地の余剰が日本国内に乏しかったため,秀吉は文禄・慶長の2回に渡って朝鮮出兵を決めたと言われている。
この2回に渡る朝鮮出兵で,加藤清正率いる日本軍は悪事の限りを尽くし、朝鮮国の国土は荒れ,国が疲弊した(と記録されている。)
この時に,諸侯が秀吉に自らの戦績を報告するために,競って朝鮮人の耳や鼻を切り落として塩漬けにして持ち帰ったものの名残が,いまも京都市に残る耳塚だ。
(考えるだけで身震いしてしまうほど恐ろしい…)
そんな中,加藤清正の右腕でありながら,この度の出兵に異を唱えたのが沙也可だ。
その後の1910年の韓国併合のこともあり,韓国史において長らく憎しみの対象とされていた日本人であっても,当然ながら高い評価を得ている日本人は何人も存在する。
疑うまでもなく,沙也可はそのうちの1人だ。彼の英断と功績は,今なお語り継がれている。
韓国でこれだけ評価されている日本人がいるという事実は,今後の日本と韓国の関係を考えるうえで価値ある足がかりにはならないだろうか。
そう考え,彼の残した鹿洞書院と墓地を初詣替わりに訪れ,今後の相互友好発展を願うことにした。
場所柄にふさわしく(?)この1年の日本と韓国の関係を振り返ってみた。
両国ともに指導者が変わって早一年。隣国どうしでありながら,今なお首脳会談が行われていないという明らかな異常事態が続いている。
冷え切った両国関係の中で,どれだけの国益の損失があっただろう。考えるだけで,何とも悲しいことえはないか。
未だに国益が優先されるこの社会を生きながら,感情が先走ってしまうのは本当に寂しいことである。
安倍首相には,不戦の誓いを立てるのであれば,靖国よりもこういうところを訪問し,献花し「秀吉による朝鮮出兵後には,江戸幕府と朝鮮王朝の間に友好関係が築けていたにも関わらず,不幸にも1910年に韓国併合が起きてしまった。いま,こうして義を重んじて異国の地で称えられている日本人の墓地を訪れ,その日本人の子孫の方々とお会いして,不戦の念を改めて表明したい」としていただいたほうが,よほど両国にとって前向きなメッセージを発信できたのではないだろうか。とつくづく感じた。
同じ不戦の誓いであっても,靖国と鹿洞書院では,ずいぶんと意味合いの違ったものになったのではないかと感じずにはいられなかった。
鹿洞書院の隣に,ガラス張りの建物があった。鍵が掛かっていたので中に入ることはできなかったが,「日本国貴賓 鹿洞書院訪問」と書かれた横断幕が掲げられていた。(写真最後)
どのような人物が訪問したのだろう。そして,貴賓とされる人がこういう場を訪問したにも関わらず,こういうことは報道されず,ネガティブなことばかりがニュースになっている現状を改めて寂しく感じた。
なぜ人は傷つけあうのだろう。。。
そして,金忠善つながりで,文禄の役で加藤清正率いる日本軍が韓国南東部の蔚山に築いた城跡地を見てきた。まさに兵どもが夢の跡。建物の痕跡はなく,日本式に積まれた石垣が残るのみだった。
時は流れ,万物は流転し朽ちる。石垣も所々で崩れている場所があったのが少し残念だ。
清正たちは,ここから海の水平線の向こうにある日本を眺めながら,何を考えたのだろうか。そして,どういう思いでここを去って行ったのだろう。思いを馳せれば尽きることはない。
by yooinchoi
| 2014-02-01 22:13